昭和48年12月19日 朝の御理解



 御理解 第19節
 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」

 金光大神取次の働きと言うものは、私共がどこから金光様を称えようが、いわゆる時間、空間を問わずに、そこに金光大神のお取次の働きというものが始るのである。そこで金光様と称えるところに金光様が来て下さる。だからおかげは受けると言う事じゃないのである。取次の働きがはじまる。金光様はおかげを下さる事は出来ないのである。金光様は取次でおかげを取次いで下さるだけである。
 信心を取次いで下さるだけである。おかげを下さるのは天地金乃神様、そこのところを間違わないようにしなければいけない。成程金光様と称えておかげを頂くことはです、金光様取次の働きがそこに始まるから天地金乃神様のおかげを、ある場合は金光大神がキャッチして、送って下さる。ある場合は私共の心でそれを取次のお働きによって、私共の心にそれをキャッチする。例えて申しますと四神様の御教えの中に氏子おかげは神から出ると思うなと氏子の心からぞ。
 してみると何か天地金乃神様がおかげ下さるんだと申しましたけれども、それと同じなんです。私共は金光大神の取次の働きによってです、私共がおかげの受けれる例えば状態、いわゆるおかげは和賀心と言われる。その和賀心がおかげを頂かれる状態になる。そこで神様のいうならば、限りなくそれこそ降るようにあっておるおかげを私共の心でキャッチする。降るように下さってあるのはやはり天地金乃神様だと言う事。
 それこそ生神金光大神は場合によっては、それを強力なよく申しますでしょう、お結界にお取次の働きというのは、金光大神の働きというのは、いうならば太陽のいわゆる天地金乃神の働きを太陽熱といたしますならです、その太陽熱をここに集めて下さる。丁度レンズのようなもの働きは。真っ黒に例えば黒を塗った紙をここにこうおいといて、レンズを通してしますと、もうこの紙が燃えだすようになりましょうが。
 太陽にただ紙をこうやってですよ、太陽に向けとったって焦がれはしませんけれども、レンズというレンズの力をでです、働きでここにめぐりを場合には焼き切って下さる事もある。苦労の根を焼き切って下さる事もある。これはもう間違いない。信心して本当にいわばめぐりの深い人達がです、段々めぐりのお取り払い頂いて行くというのはそれなんです。焼き切って下さる。苦労を焼き切って下さる。
 同時に例えばここにどうでもいうなら、五度なら五度の熱が欲しいと、例えば思ってするとそのレンズのあれで集めて下さる。五度なら五度普通ではなら、一度か二度でしょうけれども、強力なそういう力とかはたらきというものが、そこにはたらきが起こるわけです。金光大神のはたらきによって。そこでこのお結界に、金光大神の本当の手代わりが出来ない人が座ったらです、それを散漫に反対に、丁度凹レンズのようなことにしかなってこない。おかげが頂けれるものが却って、おかげがこう散漫に、よそに拡げてしまうような事にもなってくる。
 だから金光大神の働きちゅうのは、普通のこの上に上がっておるレンズのような働きをするもんだという事。金光大神形がのうなったら来てくれというところに行ってやるとおっしゃるのはねそういう働きをしに来て下さる。それは時間、空間を問わず例えば便所の中から、昨日はアメリカの外人の方からのお届けがあったんですけれども、そのアメリカのどういうところにおろうがです、金光大神を称えるところにそこに金光大神の働きがあるのです。だからおかげを受けられるということじゃない。
 場合によってはこれは受けられんちゅう事はない。金光大神がそれを受けて自分が無条件でお与え下さる場合もある。けどお取次の働きというのは、例えば私共が間違っておるならばそこを修正して下さる。例えばお役所に書物を提出する。書き方が間違っとったら戻されるでしょうが却下されるでしょう。そしてそこはこげん書きなさいと言うて、教えてもらう。判は打っとりますと言うてもその判が違う判であったら、いわばその書類は受付けられない様にです、そこんところの働きを金光大神はして下さる。
 お取次の働きをそう。私は今日は昨日は大変おかげを頂いて、もう昼前だったでしょうか見えて、ある大きな問題についてお願いしてあったのが、大変順調よくおかげを頂いておるというので昨日お礼の参拝がありました。月次祭にも参って来ておりました。ここに沢山なお参りがあっても、沢山ないうなら財のおかげも集まってくるわけですけれども、これが毎月、毎月きちっとした事ですよと、余りもなければ足りもせぬというごとあるように、おかげを頂いとりますよというて話してましたけれども。
 その人が何を言うてもわかられる話じゃないけれども事実そうです。ですからいうならば、その日暮らし、その日暮らしが段々大きくなってくる。例えば日に一万円のその日暮らし、五万円のその日暮らし、内容が変わってくる。その日暮らし、だからこそ神様の間違いないのには恐れ入ると言う事も出来るけれどもです、そんな意味の事を思うてお願いさしてもらいよりましたらね。
 その日暮らしではいかんと神様が、そんなら神様どうぞ働きのある、余裕のあるおかげを頂かして下さいと言うたら、それでも神様はいかんとおっしゃる。ならどういうふうに願うたらよいだろうかと私が思うた。毎日、毎日がその日暮らし的なおかげ。しかもそれが普通それこそ、殿様でも大名でも勝たんような、その日暮らしが出来れば、それでよいかと思うとった。
 けども、それじゃいかん。やっぱりゆとりがなからにゃ、余裕がなからにゃいけん なら、どうぞゆとりのある余裕のあるおかげを下さいと願う。又はいいえその日暮らしで結構です、だんだんそのかわり程度の高い百円のその日暮らしより、千円のその日暮らしが出来ますようにというてもいけん。よかろうごとあるけどね。その日その日に必要なものが必要なだけ集まってくる。神様のおかげが有難い、恐れ入るというその恐れ入れる生活が出来んのだもん。
 けども段々、それがよくないのじゃないけれども、そういうおかげをです、いわばそういうふうにお願いしたら、そういうお願いの仕方じゃいかん。それじゃいかん、それが修正なんです、訂正。まっちと本当な願い方があるぞというて下さる。健康なおかげを下さい、健康なおかげを下さいというてもです、不健康になるような生活をしながら、健康を下さいというてもいけんから、健康になるためには健康になるような心がけにならせてもろうて健康を願へ。
 家庭の円満を願うならばです、どうぞ家庭の円満を円満をというてもです、そういう願い方ではといけんぞと。家庭円満を願うからには、こういう信心修行もさせてもらわにゃいかんぞ。こういう考え方を変えねばいけない、それが金光大神の働きなんです。だから来て下さったからもうそこで、金光大神の働き、もうおかげが受けられると言う事じゃない。そういう働きをして下さる。
 今日私はそのことを、どういうお願いをさせて頂いたらようろうかと、例えば何と申しますか、まあ私共のようにその日暮らし的なおかげを頂いておる、まあ五十万要るとき、金が要る時には五十万円のおかげを頂く。本当にたちどころにおかげを下さる有難いなあと。しかしこれでは、神様にやはり御無理いわなけりゃいけない。そんならゆとりのあるおかげを頂かして下さい。それでもいかんと。
 例えて言うと、神様の働きの間違いなさを実感させて頂けれるゆとりのあるおかげでなからなければ、それを願えと頂きました。ああもうおかげ頂きよります、おかげ頂きよりますというて、口だけちっとくらい思うとろうばってん、口だけじゃけんでほんなこと言うと、自分が働いておかげを頂いたと思うけん、お金のおかげを頂いてもそれを神様のお役に立つよううに使いきらんでしょうが。
 私が成程こうして、億万の財産を持っとりますけども、神様がお使いなさるならばいつでもこれにのしつけて、つけておりますと言う様な信心生活が出来る事の為にゆとりのあるおかげ。ゆとりが出てくると威張ってくる。神様でんなんでん下に見るごとなる。それこそお供えして上げよりますと言う事になってくる。それでは如何にゆとりのある様なおかげを頂いても値打ちはないから、値打ちのあるゆとりのあるおかげを頂く。健康の上でも人間関係の上に於いても、金銭経済の上に於いても同じ事なんです。
 だから合楽の場合は本当にもっともっとゆとりのあるです、なら、億万の金でもいつも銀行に入れてある。さあというて神様どうぞどうぞと言うてお願いせんでもすむようなおかげを頂かにゃいかん。そしてその億万の金がです、いつでも神様あなたがお必要な時には自由自在にお使い下さいと、いつも熨斗をつけておれれるようなおかげを願えとおっしゃる。私はこれを頂いて、成程金光大神のお取次の働きというものは、そのように教えて下さることなんだ、なら、おかげは天地金乃神様が下さる。
 氏子おかげは神から出ると思うな、氏子の心からというのは、心をそう言う風に改めて行く所におかげはもう実を言うたら、まんべんなしに降るようにあっておる、その心でそのおかげをキャッチする。だから神様から頂くおかげ、氏子の心から出るおかげ、理屈は同じことなんです。そういう調整というか調整を金光大神はとって下さる訳です。しかもそれは信心に応じてなんです。小学生は小学生なりに、大学生は大学生なりに、そこんところを塩梅よう調整をとって下さるのが金光大神の働きなんである。
 昨日、久留米の井上さんところのお父さんの式年、それからお姉さんも二十五年前に嫁入られてそして、子供さんが出来られて、そのお産が難産のためにその子供さんもお母さんの姉さんもなくなられた。だからその方の御主人というのがおんなさる。ところが話を聞きよったら飯田の人げな。あらならそこじゃないですか。もう二十五年もう亡くなってそのまま疎遠になっておるんだけれども、昨日はそういうわけで、いわゆる先の家内のまあお祭りをするからと言うてあったから、昨日参って見えた。
 見えておったわけです、そういう意味でのいうなら霊祭でした。
 頂きます事がね、これはお父さんの方の霊様の方に対してでしたけれども、私共も日々の安心のおかげ頂きたいこれが願いの焦点でしよう。信心の願いというのは、これは霊様だって同じことです。喜びの霊様、安心の霊、としてのおかげを頂きたいのは霊様だって同じ事です。ところが安心とか喜びというのはもう、これはもうこれでよいともう限りがないのである。そこでです、この安らぎのその霊ながらの、その安心の道を歩いておったところがです、どっこいそこで行き詰まる事になった。
 それでこれから先はどげなふうに行ったらよいですかと、尋ねるのに対して、ああこれからの安らぎの喜びの道はこうですよというて教えてあげるような状態の御霊様のお祭りでした。もう際どいところのでなかったら、そこで迷わにゃんところじゃった。式年祭ちゃそういう意味で有難いですね。霊ながらも安らぎの道を歩きよりますよ、喜びの道を歩きよりますよ。けどもそこで留まっておるというのは、それから先の道がわからんというようなものなんです。
 そこで式年なら式年のお祭りによって、これからはこうお出られるともっと素晴らしい安らぎ、もっと素晴らしい安心の道に出ることが出来ますよと教えてあげられるようなお祭りだったという御理解を頂いた。その教えてあげることが金光大神の働きなんである。姉さんの霊それこそ二十五年ぶり、そのお子さん方の霊様のことについてはね、神様が喜んで下さるというても、その喜んで下さる、その例えば程度が沢山いろいろあるわけです。神様も喜んで下さったと。
 一寸自分の心を変えただけで神様が喜んで下さる。様々な喜んで下さると言う事であった。只、昨日頂くとがね、もうここ二、三年信心を止めてお参りして来ない人がある、そしたらその方がね、お祭りして来ている御心眼を頂いた。そしたらね、私がね、もう一人の私がです、もう涙を流して喜んでいるのです。その方が言っているやっぱり先生永い間御無礼しましたが、金光様のおかげ頂かなければ立ち行きませんと言って何年間の事をお詫びしてから、参ってきとる。
 それを私が取次かして頂き、涙を流して取次よる所を頂いた。だから神様の喜び、親先生の喜びです。けれどなら日々皆さんがです、お参りしてきてゆるぎのない信心を頂いておると言う事は実を言うたらもっと素晴らしい喜びだと言う事なんです。けどそれを、ああ今朝を朝参りしてきたねと言うて涙を流して喜びよらんばってん、心の底は本当の喜びはそれなんです、信心を止めておかげを落として行く寸前に、又改まってこれから又信心を続けさして頂くという、そのことを神様は喜んで下さる。
 神様が喜んで下さると言うてもです、そういう神様が喜んで下さり有難い言うて下さるのは、様々なだから一番、いうならば最高に喜んで下さる事は、間違いのない信心をね、昨日月次祭の時に申しました御理解じゃないけれども、ここで例えば柔道の道を教えでおるとするならは、皆が通うては来ておるけれども、柔道衣も持たずに、只稽古に来よるとじゃない。只おかげ頂ききに来ると言う様な事では神様は喜びなさらん。
 ここには信心の稽古をしに来るところですから、本気で柔道衣を持って柔道衣を着てから、さあこれから柔道を教えて下さいと言う事にならなければ師匠は喜ばん。だからそう言う事のですね、教えて下さる働きが金光大神の働きなんです。今日は金光大神、形がのうなったら来てくれと言う所に行ってやる。なら金光様というたらそこでもう、おかげがもうてんばりやすう頂ける様な事に思うておるのは間違い。それはまさかの時には、どんなおかげでも頂きますよ。
 金光大神でなくて、親先生というただけで、おかげ頂きよるでしょうが皆が。だからそういうおかげもさることながら、本当は金光大神が取次の働きを現しに来て下さるのである。おかげは金光大神が下さるのではない。天地金乃神様なんだ。又は氏子の心からなのだ。そこで心からのところをです、神様のそういう心がけではいけん。そういう信心ではいけないと修正、正して下さる。
 そういう働きをして下さるのが金光大神の働きである。私共は金光大神を拝ませてもらうということは、そういう意味である。金光様をとなえるところに。金光大神の働きがある、だからそのはたらきを気つかずに只、金光様、金光様ばっかり何十年言うとったっちゃ、本当のおかげにはなってないということ。金光大神がいうなら、いくらも今日は実例を以て正して下さることをお話しましたが。
 こうあらなければと言うて下さったら、こうあらねばいけない。そうしなければとおっしゃったらそうしなければいけない。そこんところを頂くのが、金光大神に来て頂いて金光大神の教えを仰がせてもろうて、天地金乃神様のおかげを受けると言う事になるのです。ここんところを金光大神と言う所に、金光大神のおかげがそこに始る様な考え方では駄目だと言う事ですよね。
   どうぞ。